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うたとはるの往復書簡『歴史の中の茶道の役割とは?』

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ライター、3DCADオペレーター、家業の手伝い、2人の男児の母、主婦と5足のわらじを履いています。 趣味は茶道とネイルと歌うこと。 女性が自分らしく過ごすための、ちょっとした情報をお届けします。
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読者のみなさん、こんにちは。うたです。

書人のはるさんと私、うたの共通の趣味を文通形式ででお送りするシリーズ第5回目。

日本文化に深く通じる月齢を意識して、満月ごとの更新でお届けしています。

 

先月、はるさんからいただいたお手紙はコチラです。

 

では、私からはるさんへ差し上げたお返事をご紹介しますね。

 

拝啓、はるさま

 

紅葉の絨毯を楽しむ時期になり、少しずつ冬の足音が聞こえて参りましたね。

早いことに、また月が満ちました。

明日からは師走、一年の締めくくりの時期に入りましたね。

 

はるさんは、新しいお茶の世界にもとても詳しくていらっしゃるんですね。

はるさんの茶道への姿勢を拝見するたび、いつも襟を正す私です。

 

はるさんがおっしゃっていた通り、茶道は伝統だけでなく新しいものを積極的に取り入れていく側面があります。

では、茶道の始まりから現在に至るまで、茶道とはどのように変容していったのでしょうか。

 

その歴史的な役割についても、今回お話してみたいと思います。

 

茶道の源流

 

日本の茶道の源流は、中国から鎌倉時代に輸入された文化「闘茶」だと言われています。

闘茶の方法はいくつかありますが、お茶の産地を味や香りで当てるいわゆる「利き茶」で、元は朝廷の宴で催され、後に武家でも流行り出します。

元々は雅な遊びでしたが、時代を経るごとに景品を賭けるなどの賭博の要素が絡んできてしまいます。

あまりの熱中ぶりに禁止令が出るほどのものとなってしまいました。

 

また、お茶の本場である中国出自の茶道具である「唐物(からもの)」が次第にもてはやされるようになり、大名たちがこぞって蒐集してはそれを用いて盛大なお茶会を催すことが流行り出します。

この流れは、乱世でお茶会を催すどころではなくなる15世紀後半まで続きます。

ちなみに、今でもこの「唐物」はお茶の世界では珍重されていて、「唐物」と日本由来の「和物」ではお道具の扱いやお点前自体も違うんですよ。

 

茶道の政治利用

 

宴での遊びが起源の華美なお茶の世界では、飲酒や賭博と絡むのが常でした。

そこからまったく別の道をたどるのが、飲酒・賭博を禁止して精神的交流をお茶席の主とした「わび茶」です

わび茶を始めたのは村田珠光で、その孫弟子にあたる武野紹鴎がその世界を深め、さらにはその弟子である千利休によって現代まで続く茶道の基礎を作っていきます

 

茶道自体には、元々政治的な意味はありません。

しかし、将軍や大名が茶道に魅せられて茶人とつながりを持ったがために、政治に利用される時期がありました。

 

御茶湯御政道

御茶湯御政道とは、織田信長によって茶道が政治利用されたことを指します。

 

織田信長は「名物狩り」と称されるほど、茶道具に価値を見出してそれらを蒐集していました。

そして、それをただ集めるだけでなく、功績や働きに対しての「褒美」として下賜することで、家来たちの士気を高めることに利用していたのです。

 

また、茶の湯を公に行うこと自体も信長の許可制にして、それを得るために功名を上げることに家来たちは躍起になったといいます。

実際に許可されたのは、信長の家来の中でたったの4人で、豊臣秀吉は許可されたことを思い出すだけで涙が出るほど光栄で喜ばしいことだったようです。

つまり、茶席で亭主を務められるということは、織田家の家臣の中でも高い地位にいることの証明になったのです。

 

  1. 名物茶器を信長から賜ること
  2. 賜った名物茶器を使用した茶席を設けることを許可してもらうこと

 

この二つを士気を高めるのに利用していたのですね。

また、戦場から離れた時の精神修行や密談の場としても利用されたことでしょう。

 

政治ショーになった茶道

豊臣秀吉の時代になると、茶道は家来への「褒美」から世間へアピールするための「ショー」として利用されることになります。

 

ついに天下統一を成し遂げた豊臣秀吉。

盛大なお茶会を開催して人々の心を和らげていさかいを納め、天下泰平の気分を演出すると共に、その威信を知らしめました。

こうして、豊臣の政治基盤を盤石なものにするために利用していたのです。

 

有名な北野天満宮で行われた「北野大茶湯」では、たった1日で総勢1,000人の参加者が集い、身分の分け隔てなくくじ引きで席入りしたと言われています。

そこで名物茶器を展示、使用し、黄金の茶室も設えられました。

 

引用:note

 

北野大茶湯はわび茶とは異なる趣向ではありましたが、演出を担当したのは意外にも千利休でした。

こうして秀吉の時代には、太平の世であるゆえに茶道がより大がかり且つ威信を演出する道具になったのです。

 

武士のたしなみとしての茶道

 

江戸時代になると茶道の政治性は薄れましたが、幕府の儀礼に取り入れられたため、茶道は武士にとって必須のたしなみになりました。

しかし、このような武家階級や一部の豪商などのごく限られた上流階級のみが茶道を行っていたため、茶道は依然としてごく限られた人たちのものでした。

 

江戸中期になると、経済的に発展してきた町人たちが茶道を志すようになり、それを千利休の流れである三千家が受け入れることで茶道が広く愛されるようになっていきます。

しかし、広く愛されることによって遊芸化が進み、元々の茶道の心である「もてなす心」や「精神交流」が軽視されるようになってしまいます。

 

その流れに逆らうように、お点前を体系的に整理し様式化した上で、茶道の精神性に向き合った現代にも伝わる茶道が確立されます。

また、家元制度など今の茶道界にある制度はこのころ確立され、多人数でのお稽古様式なども整備されたために茶道が商人などの町方にも広く習い事として浸透していきました。

 

婦人のたしなみへと変化していく茶道

 

明治時代になると、茶道の主な実践者であった武家が崩壊してしまいます。

武家に庇護されてきた各流派も存亡の危機に立たされてしまうのです。

新たに上流階級に名を連ねることになった、明治維新の功労者や財閥関係者などが、茶道の再興に動き出しますが、その作法は家元に倣うよりも「自分らしさ」を表現した作法だったようです。

そこで、茶道は「女子の教養」という方向性を打ち出し、それが成功してたちまち女子の習い事として広く浸透していきます。

団塊の世代である私の母も、「とりあえず」習っておくものとして茶道をかじった経験があるそうです。

 

『歴史の中の茶道の役割とは?』おしまいに

 

元々は宴の中の娯楽から始まった茶道。

華美で賭博的要素も相まって、禁止令が出るほどに上流社会では大流行します。

 

その世界観から一線を画したのが「わび茶」です。

わび茶は簡素な設えに、亭主と客の精神交流を主とし、それが現代にまで続く茶道の礎となっています。

 

武家社会で茶道がたしなまれたがゆえに、織田信長、豊臣秀吉らに茶道が政治的な役割を持たされた時期もありました。

 

江戸時代には茶道の政治的な意味合いは薄れ、武士や豪商のたしなみに始まり、やがて町方へと広まっていきます。

明治以降には武家という庇護者を失って存亡の危機に立たされますが、上流階級による茶道再興の動きと、女子の教養としての側面を打ち出すことによって再び広く愛されるようになりました。

 

今の作法に則った茶道になじんだ者としては、宴の催しが茶道の源流とは意外でした。

ましてや賭け事だなんて・・・歴史とは不思議なものですね。

 

様々な時代の流れに翻弄されながらも、「おもてなしの心」を主にした茶道が生き残ったのは本当に素晴らしいことだと、今回改めて感じました。

歴史が積み重なって今が、そして未来が生まれていくのでしょう。

茶道は伝統を重んじながらも、新しいものも柔軟に取り入れながら発展してきました。

これからの茶道の未来が楽しみですね。

 

年の瀬の慌ただしい時期です、どうぞお体大事になさってくださいね。

ではまた、12月30日の次の月の満ちるころに。

 

かしこ

うた

 

▼うたとはるの往復書簡シリーズ

第1回『お茶席のマナー』 uta

第2回『お茶会のお菓子』haru

第3回『観月』uta

第4回『お茶の流派』haru

第5回『歴史の中の茶道の役割とは?』uta

第6回『茶道と日本の伝統文化の未来』haru

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